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■臨床の方針

学派には強くこだわらない:クライエントの主体性を尊重する

私が東京大学で学んできた臨床の技法は,認知行動療法 (CBT),のようなものでした。「のようなもの」とぼかしているのは,大学院生時代から「手段は二の次」という信念があり,CBTに対する強いこだわりがなかったからです。極論かもしれませんが,「相手が主体性を発揮することのお手伝い」という目標さえ達成できれば,手段はなんだって良いと考えています。

 

日本では「CBT vs 精神分析」という単純化された対立図式をよく目にする気がします。しかし,ひとことで「CBT」「精神分析」といっても濃淡は様々であり,そう単純化して語れるものではないと思います。投薬治療と比べれば,どの心理療法も似たり寄ったりです。昔のEysenckのメタ分析でも,「学派の違いによって治療効果が大きく変わるかといえば,そうでもない」といった分析結果が出ていたように思います (最新の議論がどうなのかはよく知りませんが)。

特定の学派に強いこだわりをもつことは,ともすれば危険なことでもあると考えています。「学派のやり方を忠実に実行する」ということが目的化してしまい,「学派のやり方に合わないクライエントを排除する」ということが起こりかねないからです。「インフォームドコンセントを徹底し,学派のやり方に納得した人だけを対象とすればよい」という考えもあるのかもしれませんが,専門知識の少ないクライエントが,わずかなやり取りで学派の良し悪しを的確に判断できるとは到底思えません。

 

やはり,優先すべきはクライエントの利益で,そのためには学派に固執してもいられないだろうと考えています。

専門家ぶらない

上記のようなナイーブな主張を展開するのは,私の臨床経験が浅いからかもしれません。私は,大学院生時代の5年間しか臨床実践を経験していません。しかも,その大半は,大学附属の相談室という守られた環境下での実践でした。上記の主張に触れて,「樫原さん,臨床の厳しい現場にさらされてごらん。きっとそんな甘いことは言ってられなくなるよ」と考える方もいることだろうと思います。

私は,そういった「樫原さんは現場を知らないね」という意見をどんどん投げかけてほしいと思っています。そういった声から,「なるほど,自分の知らないそんなことがあったのか」という学びを広げていきたいと思っています。そして,そういった専門性が高い方々の意見を,素人くさい言葉で人々 (クライエントや初学者を含む,一般の人々) に伝えていきたいと考えています。

いまさら臨床経験を重点的に積む時間もないですし,専門家ぶってもすぐにボロが出るのは明白なので,できるだけ今のまま,ナイーブな考えしか持ち合わせていない臨床家であり続けたいと思っています。何も持っていないというのも,捉えようによっては1つの武器になると考えています。一般の人々に近い目線に立ちやすいということなので,一般の人々と専門家をつなぐコミュニケーターの役割を果たしていきたいです。一般と専門の相互交流を活性化するという方向で,臨床心理学の発展に貢献したいと考えています。

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