■臨床・教育に共通する方針:「木を登るのはその人自身」
「その人が主体性を存分に発揮できる」というのが最大目標
私は,臨床・教育を問わず,「指導」や「~させる」という言葉が嫌いです。こちらが命令したり,細部に至るまで懇切丁寧に指示を出したとしても,その人自身が自力で考え付いた行動でなければ長続きしないからです。逐一指示を出すのはこちらも大変ですし,相手もいい気分はしないので,誰も得しないことになってしまいます。
私が臨床や教育で大事にしているのは,「相手の主体性を尊重する」ことです。そして,相手が最終的には自力で判断して行動できるように,整理に付き合ったり,動機付けたりするというのが私の役割だと思っています。「あの木に登ればいろんなことが見えて楽しいよ」という見通しは示しますし,そのための行動計画作りには喜んで付き合います。
そうしたやり取りを重ねた上で「あの木に登るよりは,別のことをしていたい」という結論を相手が出したなら,その決断を尊重します (その決断が他人や自分を傷つける類のものであれば,また話は変わってきますが)。どのみち,最後には「あなたのやりたいようにすれば?」と伝えることになります。ある意味ドライな接し方かもしれません。
けれど,私自身の信条として,「自分の決めた道筋通りに相手が動いてくれる」というのは,どうにもつまらないことのように思えます。不確実で予測の立たないところに人間の可能性や魅力は眠っていると考えています。いかに優れた心理統計のモデルでも,最後には決まって誤差項がくっついてくるという点にロマンを感じています。
相手の状態の見立てには力を割く
「相手の主体性を尊重する」というのは聞こえの良い言葉ですが,ともすれば「言われるがまま」にもなりかねません。問題の渦中にあるクライエントでも,経験の浅い学生でも,自分の現状に見合わない選択を焦ってしまうことはよくあると思います。例えば,重篤なうつ病症状を示して休職したばかりの人が,「明日から会社に戻ってフルタイムで働きたい」と主張する,といった具合です。
そういった場合には,相手の表面的な主張ではなく,その主張の背景にあるものに共感するように心がけています。上記の例であれば,「明日から戻らなくては,と思うぐらいに気持ちが休まらないのですね。焦りますね」と返すと思います。こうしたところに共感していくことで,相手も「いま自分には何が必要なのか,何がしたいのか」を冷静に考えやすくなるように思います。
こうした共感を行うためには,「主張の背景にあるもの」を見極めることが必要です。そのため,相手の状態の見極め (見立て) には意識して力を割いています。五感でキャッチできる情報はフル活用しますし,医師からの紹介状や履歴書など,使える情報はすべて見立てに使います。使える情報が多いと混乱するタイプの人もいるかもしれませんが,私は「情報は多ければ多いほど良い」というタイプです。そこは私の持ち味かもしれません。
情報や方針は惜しみなく示す
相手が主体的に判断するためには,そもそもどのような選択の余地があるのか,使えるリソースには何があるのかといった情報が必要になります。例えば,「卒業論文が査読付き雑誌に採択されることを目指す」という目標があったとしても,何をどう頑張れば良い論文が書けるのかという見通しがなければ,相手は途方に暮れてしまいます。
「主体性の尊重」が「放任」にならないよう,示せる情報や方針は惜しみなく示したいと考えています。一度に沢山の情報を処理する余裕が相手にない場合には,次のカードをいつでも切れるという準備だけ整えておきます。そうしたやり取りを重ねた上で,最終的に相手がどう判断するのかを見守っていきます。